<   2011年 10月 ( 2 )   > この月の画像一覧
CINE21 820号『映画の演技とは何か』 (3)
3. カメラの演技は、舞台演技と、どう違うのか?

“カメラがどこにあるのか私の顔がどのように捕らえられるのか、
その上私は演技をして何の話をしているのか見当がつきませんでした。
相手役と呼吸しなければならないと聞いたのに、
相手のせりふは聞こえもしないし、
私のせりふが間違わないことにあくせくしていました。 (笑い) ”

演劇を経ないでカメラの前で演技の第一歩を踏み出した
イム・スジョンが振り返る最初の恐れだ。
教科書は、よく映画の演技の属性を演劇の演技と対比して説明する。
演技する現場から演劇は、客席を闇で覆い、
舞台にだけ照明を照らし、劇的世界を明確に区切るが、
映画俳優は、狭くは 5m 半径に配置した装備と、
ひそひそ話す人たちの前で没頭しなければならない。
まず多くの俳優が演技で目を使う方式の差を話す。
ソ・ヨンヒは“演劇何編かを撮りながら目が合う演技に慣れたから、
肩や虚空を見ながら演技するのが大変でした。
今も易しくありません”と言う。
ファン・ジョンミンは“映画は、
目だけで演技をしなければならない場合が発生するのですが、
言葉の他に目でどんな光も送ることができなくて、
悩みがありました”と振り返る。
コ・チャンソクは、演劇は 1 対 100のエネルギーを、
映画は 1 対 1のエネルギーを必要とすると要約する。
オ・ダルスは、カメラと演劇の観客の視線の類比関係に注目する。
“結局は演劇が土台です。映画でカメラが観客の視点を代弁しながら動くというなら、
舞台では、俳優が観客を配慮して、
視線処理の高さ、両手の中で先に持つ方の手、
回転の時身体を開く方向などを決めます。
それが正しくなければ、観客が不便を感じます。
映画にクローズアップがあるというなら、
演劇には俳優の脳天に落ちるトップ照明があります。
演劇でトップ照明を受けて来た視線が集中されると、
周辺は真っ暗で見えるものがありません。
それでもう分からないということが言えます。 (笑い)
クローズアップの演技も、もう分からない式が一番良いようです。”
ソン・ガンホもやはり、演劇の演技の包括的底力を認める立場だ。
“よく重要に感じられる相手の話を十分に聞くのは、
映画より聞かなくては感情が発生することが
できない演劇でより決定的です。
舞台で見えないようにそれを学習しました。 ”
それでも少しの技術的移行期は必要だ。
大学で演劇をしたキム・サンギョンは、
カメラ演技初期にスタッフの前で公演するという想像をしたと言う。
近頃も彼は、 1次観客である現場製作陣から胸を
打たなければならないという目標を捨てていない。
ハ・ジョンウにとっての映画演技学校は、
おおよそ 10ヶ月の間撮影した
ユン・ジョンビン監督の卒業作品 「許されざる者」だった。
1カットに 30テイク以上撮り、10ヶ月を現場で生きてみると、
演劇で形成された俳優の身体が、自然にカメラの演技に適応した。

撮影と演技は、どのようにお互いを押したり引いたりできるのだろうか?
大多数の俳優たちは撮影監督と別途に
演技を議論しないが、例外もある。
常凡ではないアングルをしばしば駆使する
パク・チャヌク監督の「サイボーグだけど大丈夫」を撮る当時
イム・スジョンは異例的に、チョン・ジョンフン撮影監督の
アングルをあらかじめ確認して演技に参照した。
「黄海」の初盤、 一人きり寒いソウルの街を
さ迷う単独シーンが多かったハ・ジョンウは、
ある日、イ・ソンジェ撮影監督が自分のような心情で
モニターを確認していることをふと悟り、
カメラも自分とリアクションする一種の俳優であることを発見した。



4. 映画俳優は、編集の '専横(好き勝手)'に、どう対応するのか?


編集は、カットとカットの衝突を通じて、
俳優の中立的ジェスチャーと目つきに
弾力と意味を吹き入れる有能な風のジャブだ。
しかしもっと大きな単位で見ると、
編集システムによって、大多数の映画で
俳優たちは、シナリオの順序と無関係に演技する
条件を受け入れなければならない運命だ。
3、 1、7、8回のシーンをAという場所で撮って、
10、2、5、 4、 9回のシーンはBで撮る映画ならば、
俳優は、あらゆる障害物を越え、その日その日の
撮影の分量に相当する感情グラフの座標に着地しなければならない。
虐待される主人公が復讐の鎌を持つ前と後に
大きくなるように両分される 「ビー・デビル」の例を見よう。
途中途中のシーンが抜けた状態で村の人々を殺す
後半場面を撮ったソ・ヨンヒは、
既存の殺人者の演技から力を抜きたいという構想を押し通した。
“ところが、スタッフたちが不安に思いました。
前半部との変化が大きくなさそうに見えるのに、どうするのかと。
私も不安だったのですが、その時揺れれば、
本当に映画が山に行くしかないと思い、トーンを堅持しました。”
編集の専横を痛感させるようにする事例は、
映画の結末が変わる場合だ。
俳優たちは、いわゆる心を込めて調整した感情線を、
愚弄されたと思わないだろうか?
何種類かのエンディングを袖の中に入れて
最後まで秤にかけるキム・ジウン監督と作業して来た
イ・ビョンホンが説明する。
“コーヒーに白砂糖、黒砂糖、角砂糖の中で何を入れるかの問題であって、
塩とか調味料を入れろという非常識な注文ではありません。
場面が変わると言っても、
場面の核心の情緒、映画が究極的目標を
共有すると言うなら同意することができます。”
しかし、出入りが多い撮影順序は、
特定のシーンの撮影を不可能にさせる例もある。
「ハピネス」でファン・ジョンミンは、
恋人に心が遠くなった時期のシーンたちを盛んに撮る途中、
場所の渉外問題で、愛し合っていた頃の
場面にバックする状況が近づくと、監督に
“到底感情がわきません。嘘っぽいです”と告白し、撮影を諦めた。
逆に撮影の順序の混合が役に立つ時もある。
10分を超す「愛してる、愛してない」のロングテイクの
オープニングシーンは、クランクアップの日撮影された。
イム・スジョンは、相手俳優ヒョンビン、スタッフたちと
その間呼吸した時間があったから、
それだけでもこのシーンは容易だったと回顧する。

映画の演技は 1回のことだが、 1回のことではない。
観客が見る一つの演技の後ろに複数のテイクが隠れている。
テイクごとに全部別の演技をするが、
編集室に行くと、みんなOKだという評判の主人公ソン・ガンホは、
大勢から脱しなければ 、A-1でも A-2でもAとして
問題がないという見解だ。
“地球は今も回っているのに、
どうして演技が前テイクとまったく同じにできるのですか。”
あえて完成本に入らなくても、様々なテイクを許容するメカニズムは、
映画俳優に若干の息の根、見えないエネルギーを
輸血するひとつの指尺の遊戯空間を提供したりする。
イ・ビョンホンがそんな場合だ。
“監督の意図によるテイク、私が望むテイクをすべて
撮ってみてOKカットが既に出たのに
'今度何ができようがやってみるよ' と言って、
もう一度行ったりします。
大部分編集でカットになりますが、
退屈な講義を聞いて首を一度ほぐす気分です。 ”
[PR]
by gomazokun | 2011-10-14 23:36 | その他翻訳
CINE21 820号『映画の演技とは何か』 (2)
2. 現場に立った俳優の頭の中では、どんなことが起こるのか?

どれほどすれば '憑依'というオカルト的単語が動員されるのだろう。
私たちは許諾されるなら彼らに脳波探知機でも付着したい。
演技に突入した俳優の意識中では、果してどんな作用が起きるのか?
どんなきっかけが感情の引き金を引き、バルブをかけるのか?
映画の演技も練習が可能なのか?
私たちのできる事は、事例収集ばかりだ。
ソン・ガンホは、弛緩した精神と肉体を維持したまま
現場へ行く事を基本に指折る。
ソ・ヨンヒの経験談も、脈絡を共にする。
“家で本当に熱心に練習してあらゆる状況に対応する
多くのコンテを組んでみて現場へ行くと、
頭の中に描いていたテーブルはありもしなくて、
地下で想像していた空間は屋上です。
そこで私が 'これは違うから' と
受け入れることができなければ、限りなく崩れます。”
映画の撮影現場でスタッフと差別される
俳優の特殊な状況は彼女を除いた全員が、
現場をまともにころがって行くようにするために
極めて冷徹な頭を維持しているところに
一人で精神的に裸にならなければならないという点だ。
「シークレット・サンシャイン」ついてのチョン・ドヨンの回想だ。
“酔った人たちの中で気が抜けた演技をするのではなく、
刃物のような視線たちが私を取り囲んだ中に
自分をおくのが非常に大変です。
大きな羞恥心を捨てなければならなかったです。
人々は、神がかりと言いますが、実際には、
どのくらい空にするのかがカギです。”

ファン・ジョンミンの場合、“テスト撮影をしに行って、
人物の衣装をぱっと着る瞬間、
耳の後ろがサッと熱くなる感じ”でスィッチが入る。
撮影中のキャラクターの性格を維持するために
多様な水準の没頭が試される。
「ユア・マイ・サンシャイン(原題:君は僕の運命)」で
ファン・ジョンミンと共演したチョン・ドヨンは
“ソクチュンがウナと離れて会えない重要な
場面を撮った時期には、
撮影していない間も私を避けていました”と記憶している。
「素敵な一日」で悠々自適な男チョ・ビョンウンに
ならなければならなかったハ・ジョンウは
実際の撮影現場で一度も癇癪や怒りを起こさないという決心をした。
'クッション' 良いビョンウンの性格を維持しようとする心得だった。
反対に映画始終怒りで支える「悪魔を見た」のイ・ビョンホンの顔は、
ずっと一晩中泣いた男のそれだった。
どうして可能だったのだろうか?
“まず、撮影場に到着すれば、
扮装する時から今日撮る場面だけを考えます。
そうしてみると、私はいつのまにか怒っているし
喪失感にかられます。
変なそのような感情になると私は目の下がみなぎり、
膨脹する感じを受けます。”
キム・サンギョンは 「光州5・18」で、
負傷した弟が死ぬ病院の場面を撮る日、
照明とセッティングを変える間にも嗚咽が止まらず、
撮影し宿泊先に帰る車中で気力が尽きて気絶することもあった。
反面たゆみない没頭より '出入り'を好む俳優もいる。
「チェイサー(原題:追撃者)」の犠牲者と
ドラマ 「ムドリ(原題:嫁全盛時代)」のおどおどした作家役を
同時期並行したソ・ヨンヒは、
苦痛で泣き叫ぶ演技と、笑ったり、
騒いだりする演技を往復することで不足なエネルギーを補い、
精神的平衡を保つことができたと自評する。
何といっても俳優にとって現場は、
フリープロダクションから進行された
キャラクター形成のメイングラウンドだ。
“監督と机に向き合って座って話すとか、リーディングだけでは、
人物を把握するのに限界があります。
彼女の服を着て、劇中の場所でリハーサルをする時に
初めて現われるディテールがあるから。”
チョン・ドヨンの所見だ。



3. カメラの演技は、舞台演技と、どう違うのか?


“カメラがどこにあるのか私の顔がどのように捕らえられるのか、
その上私は演技をして何の話をしているのか
見当がつきませんでした。
相手役と呼吸しなければならないと聞いたのに、
相手のせりふは聞こえもしないし、
私のせりふが間違わないことにあくせくしていました。 (笑い) ”

演劇を経ないでカメラの前で演技の第一歩を踏み出した
イム・スジョンが振り返る最初の恐れだ。
教科書は、よく映画の演技の属性を演劇の演技と対比して説明する。
演技する現場から演劇は、客席を闇で覆い、
舞台にだけ照明を照らし、劇的世界を明確に区切るが、
映画俳優は、狭くは 5m 半径に配置した装備と、
ひそひそ話す人たちの前で没頭しなければならない。
まず多くの俳優が演技で目を使う方式の差を話す。
ソ・ヨンヒは“演劇何編かを撮りながら目が合う演技に慣れたから、
肩や虚空を見ながら演技するのが大変でした。
今も易しくありません”と言う。
ファン・ジョンミンは“映画は、
目だけで演技をしなければならない場合が発生するのですが、
言葉の他に目でどんな光も送ることができなくて、
悩みがありました”と振り返る。
コ・チャンソクは、演劇は 1 対 100のエネルギーを、
映画は 1 対 1のエネルギーを必要とすると要約する。
オ・ダルスは、カメラと演劇の観客の
視線の類比関係に注目する。
“結局は演劇が土台です。映画でカメラが
観客の視点を代弁しながら動くというなら、
舞台では、俳優が観客を配慮して、
視線処理の高さ、両手の中で先に持つ方の手、
回転の時身体を開く方向などを決めます。
それが正しくなければ、観客が不便を感じます。
映画にクローズアップがあるというなら、
演劇には俳優の脳天に落ちるトップ照明があります。
演劇でトップ照明を受けて来た視線が集中されると、
周辺は真っ暗で見えるものがありません。
それでもう分からないということが言えます。 (笑い)
クローズアップの演技も、
もう分からない式が一番良いようです。”
ソン・ガンホもやはり、
演劇の演技の包括的底力を認める立場だ。
“よく重要に感じられる相手の話を十分に聞くのは、
映画より聞かなくては感情が
発生することができない演劇でより決定的です。
舞台で見えないようにそれを学習しました。 ”
それでも少しの技術的移行期は必要だ。
大学で演劇をしたキム・サンギョンは、
カメラ演技初期にスタッフの前で公演するという想像をしたと言う。
近頃も彼は、 1次観客である現場製作陣から
胸を打たなければならないという目標を捨てていない。
ハ・ジョンウにとっての映画演技学校は、
おおよそ 10ヶ月の間撮影した
ユン・ジョンビン監督の卒業作品 「許されざる者」だった。
1カットに 30テイク以上撮り、10ヶ月を現場で生きてみると、
演劇で形成された俳優の身体が、自然にカメラの演技に適応した。

撮影と演技は、どのようにお互いを押したり
引いたりできるのだろうか?
大多数の俳優たちは撮影監督と別途に演技を議論しないが、
例外もある。
常凡ではないアングルをしばしば駆使する
パク・チャヌク監督の「サイボーグだけど大丈夫」を撮る当時
イム・スジョンは異例的に、チョン・ジョンフン撮影監督の
アングルをあらかじめ確認して演技に参照した。
「黄海」の初盤、 一人きり寒いソウルの街をさ迷う
単独シーンが多かったハ・ジョンウは、
ある日、イ・ソンジェ撮影監督が自分のような心情で
モニターを確認していることをふと悟り、
カメラも自分とリアクションする一種の俳優であることを発見した。
[PR]
by gomazokun | 2011-10-03 21:37 | その他翻訳